ぐらんぴ日記

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茂吉の長女は不倫の子だったのか 2011年04月16日

斉藤茂吉の妻・輝子


高島俊男氏が斎藤茂吉とその妻、輝子の行状を書いていたが、なんと彼らの長女(北杜夫からみれば姉)は不倫の子だと記してあってちょっとびっくり。
(「女傑ここにあり」――北杜夫『茂吉彷徨』(岩波書店)の書評。『寝言も本のはなし』大和書房99/6に収録)

>輝子夫人は人も知る女傑である。……夫がヨーロッパ留学中に不思議や日本でおなかが大きくなり、そこで強引に夫をヨーロッパまで迎えに行って、いっしょに日本へ帰ってきて、北さんの姉を生んだ。それでこともなくすませてしまったのだから、なみの女ではない。


Wikipedia の記述に従えばこうだ。

1921年(大正10年):10月、精神病学研究のため欧州留学に出発。11月1日神戸を出航、香港、シンガポール、マラッカ、コロンボ、スエズから陸路カイロ往復、マルセイユ、パリを経て12月20日ベルリンに到着。
1922年(大正11年):ウィーン大学神経学研究所に入る。(ドウナウの流れの寒さ一めんに雪を浮べて流るるそのおと)11月論文「植物中枢神経のホルモンによる昂奮性について」完成。
1923年(大正12年):学位論文「麻痺性痴呆者の脳図」完成。(誰ひとり此処にゐざれば論文の頁を閉ぢて涙ぐみたり)イタリア旅行を経て7月、ミュンヘン大学に転学。実父守谷伝衛門死去。11月、ヒットラーのミュンヘン一揆に遭遇する。(行進の歌ごゑきこゆHitlerの演説すでに果てたるころか)
1924年(大正13年):7月妻輝子を迎えて共にヨーロッパ各地を旅行。(歯をもちて割るはしばみの白き実を従ひてくる妻に食はしむ)滞欧中は各地で美術作品を実見し詳細な描写を手帳に記す。10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、青山脳病院全焼の電報を船上で受け取る。(もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麦を食ひたり)
1925年(大正14年):1月、帰国。病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。(とどろきてすさまじき火をものがたるをさなごのかうべわれは撫でたり) 2月長女百子誕生。


7月に夫と再会した妻が翌年2月に出産するというのは、早産にしても早すぎる。その前に妊娠していたとするのが妥当だろう。
高島氏が断定してるぐらいだから、この長女が不倫の子であることはほとんど周知されていたのだろう(でなきゃ高島氏は訴えられる)
いや、これは私、知りませんでした。

輝子夫人は、のち銀座のダンスホールの教師と乱痴気パーティを繰り返し、教師は逮捕、彼女は風紀紊乱のかどで警察に呼び出された。それが新聞に発表されて大スキャンダルになって、怒った茂吉に「座敷牢」に入れられたものの「脱獄」を繰り返して遊び歩いたという女傑。(晩年の一時期を除いて不仲だった)。
おかげで茂吉は十数年の別居を余儀なくすることとなり、その間、52歳で24歳の女弟子永井ふさ子と愛人関係になる。(その関係は茂吉の死後、ふさ子によって明らかにされる)

『楡家の人々』は読んだけれどもう忘れた。北杜夫が別に書いた『茂吉彷徨』全4巻は持っているけれど、永井ふさ子のところしか主に読んでいない。
うーん、どうなんだろうな。

写真は輝子夫人のことを孫の斎藤由香が書いた本。晩年の輝子夫人。息子の斎藤茂太、北杜夫(由香の父)が映っている。

前にも書いたけれど、山形県にある斎藤茂吉記念館には、愛人、永井ふさ子に関する記録や資料は一切なく、年表に一行記述があるだけである。
茂吉がふさ子に燃えたのは、不倫の子までなした輝子夫人の奔放な行動に対抗する心理があったのかもしれない。

ずうっと不仲でケンカばかりしていた輝子夫人を、なぜ茂吉が離婚しなかったは謎である。ダンス教師との情事が露見した段階で周囲からは離婚を勧められたが、茂吉は従わなかった。一説には「子供たちに必要な母親だから」という推測があるが、北杜夫は「母親が手続きを忘れていたので、私は幼稚園に入れなかった」と言ってるぐらいだから、子供はほとんど母親に面倒をみてもらえなかった。あまり良い母親とは言えなかったのは事実らしい。

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イイネ!(2) 天音@わらねこ Y嬢
コメント

ぐらんぴ2011年04月16日 18:36
Googleで検索してみると、茂吉と輝子夫妻の長女、百子についての記述は異様に少ない。
そのなかで彼女の出産経緯に触れたブログがあった。http://sumus.exblog.jp/13381614/
「斎藤茂吉異聞」から抜粋。
>一方、青木氏が紹介している輝子が大正十一年五月五日に外地の茂吉に送った手紙は東京中で大流行中のダンスはぜったいしませんと約束する内容だ。輝子はこのおよそ二年後、帰国を前にした茂吉とパリで合流してヨーロッパ各地を旅した。

《前田茂三郎によると、輝子が洋行して来てからも茂吉は、夫人を「家内」とも言わず、「カカア」「カカア」と言い、一種憎悪に近い語気で呼んだりしていたと言う。前田が訊くと茂吉は涙を流さんばかりに輝子のスキャンダルを訴えたとか。そして茂吉はすでに輝子はみごもっており、帰国して生まれた長女は「七ヶ月で生れた」と前田に手紙で報じたと言う(山上次郎『斎藤茂吉の生涯』)》

細馬氏が指摘する《奇妙に冷めた記述》の裏にはそういう事情があったようである。
(引用終わり)
茂吉も医学者である。妻の妊娠が自分のせいであるかないかは分かるだろう。この旅行の際にどういう話し合いがもたれたかは知らないが、茂吉は一家の恥を避けるため、妻の子を自分の子として認知することを決意したようである。ただし憤懣はやるかたがなかったことが、この記述で分かる。

ぐらんぴ2011年04月17日 14:21
ただ弟の北杜夫が書いた『茂吉彷徨』によれば、姉の百子はとりわけ愛らしい娘だったので、母親の輝子はよく洋服を買ってやって外に連れ歩いたとある。父親の茂吉も「百子、百子」と何かにつけ呼びつけ、かわいがったらしい。その点では「不倫の子」という差別は家庭内ではなかったと思われる。
北杜夫はもちろん、父と愛人・永井ふさ子の関係も、日記と書簡から記述しているのだが、自分の父親の性愛関係を、伝記とはいえ記録してゆくことに躊躇はなかったのかなと思う。けっこう露骨に書いているからね。

ぐらんぴ2011年04月17日 14:23
その点、母親・輝子の不倫については、妙に筆がぼける。やはり母親の性生活についてのほうが、父親より書きにくいのだろうか。

ぐらんぴ2011年04月17日 18:46
後年、茂吉の伝記を書くため、茂吉がずっとつけていた日記を調べたところ、輝子夫人がダンス教師と情交していた部分に関する茂吉の記述が8ページ破りとられていた。犯人はもちろん輝子夫人。かなり自分にとってはまずい記述があったのだろう。
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