ぐらんぴ日記

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石神井川の謎(2) 2011年02月16日00:52

石神井川流路地図

(2)とあるので「はて、(1)はいつ?」と思われたかた。まだ『ブラタモリ』が放映される以前のことです。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1110720436&owner_id=170858
http://jun1tate.blog25.fc2.com/blog-entry-673.html


先日、文庫化された塩見鮮一郎『賎民の場所 江戸の城と川』(河出文庫)を読んでいたら、偶然、石神井川の流路変更についての記述があったので、メモがわりに書きとめておこう。

塩見氏はまず、こう書いている。

>石神井川の水源から河口までの、右のような流れについては、鈴木理生(まさお)『江戸の川・東京の川』(井上書院)にその説を見出して、少し疑問は残しているものの賛同していた。それ(鈴木説)では、飛鳥山にぶつかって谷田川のほうへ流れていたこの川を、だれがいつごろ、王子駅をこえて隅田川に最短距離で結びつけたのか。それについて右(『江戸の川~』)の本では、
>>……私は石神井川が現在のように石神井川と谷田川に分断されたのは、人為的なものだと断定したい。この¨工事¨の時点は頼朝の¨敵前渡河¨の先導をつとめた豊島氏によるものか、または石神井川=谷田川河口に配置された矢野氏によるものか、どちらかと推定する。


 鈴木理生氏の説を受けて、塩見氏はこう説をたてる。
「王子の崖に穴をあけた先は、かつて荒川(のちの隅田川)が流れていた土地で、しだいに干上がり、いまの尾久のあたりから地面が表われていた。この(流路変更)工事の中心になったのは豊島氏であろう。豊島清光の館は、北区豊島七丁目の清光寺のところにあった。荒川のそばに住んでいたのだから地形は知りつくしていた。工事の理由は雨期に氾濫して田畑を荒らしたせいかもしれない。また河口の江戸橋あたりに港(江戸湊)に多くの土砂が流れ込むのを避けようとした可能性も高い」

私は地形図を見て、王子が谷田川の攻撃崖であったことから、繰り返される氾濫で王子の崖は両側から崩落していって、いつかの時点で決壊し、谷田川の流路変更が行なわれたのだろう、と考えていたのだが、「人為説」もけっこう根強いのだね。

しかし鈴木理生氏の説も文書などの証拠に基づいてはいないこと、自然崩壊説と同じだ。証拠はない。
人為説なら、工事の痕跡や文書、言い伝えが残っていると思うのだがなあ。

鈴木理生氏といえば東京江戸の地理に詳しいアマチュア研究者で、東京のことを調べると必ず名前が出てくるかた。私の本棚にも多いが、井上書院の『江戸の川・東京の川』はチト高価だったので二の足を踏んだ記憶が。
仕方ない買いますかねえ。(^_^;)

ちなみに塩見鮮一郎氏といえば、浅草弾左衛門の研究で有名な被差別部落研究者ですね。文中に出てくる「矢野氏」というのが浅草弾左衛門。当時の物流の中心、江戸湊一帯を支配していた勢力の頭でした。

コメント
イイネ!(1) 若にーる
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コメント

ひな_shella2011年02月16日 01:16
鈴木氏の本、学部生のときに授業で紹介されて読みました。懐かしい…

ブラタモリは面白い番組なんですが、河川関係では
ヒドく「ありえない」ことを放送したので観るのをやめてます。
http://collegio.jp/?p=375

ぐらんぴ2011年02月16日 02:18
>ひな_shellaさん
このコレジオってブログの芳賀啓さんが、タモリ倶楽部で石神井川流路変更の回に出演していた研究家ですね。(*_*;)
その時のことを書いておられる。
芳賀さんはこの時、自然崩壊説で、江川達也氏が人為説でしたな。
芳賀さんは、この時はタモリ倶楽部出演を楽しがっていたのにね。

邪太郎2011年02月16日 05:39
なるほど。また、勉強になりました。
古地図には「脚色」の部分も多く含まれているのですね。

ぐらんぴ2011年02月19日 07:46
Wikipedia には、流路変更の諸説が簡明に記されています。

最新の「科学的な所見」によれば「縄文時代の河川争奪説」が有力なようです。以下は Wikipedia からの引用。

>1976年、東京都土木技術研究所の中山俊雄らはボーリング調査による石神井川と谷田川沿いの地質断面図を作成し、石神井川の流路変遷を論じた[7]。彼らは、谷田川から不忍池を経て昭和通りにいたる地下に基底が-20mに達する埋没谷が存在すること、石神井川下流の王子から隅田川合流までの地下に埋没谷が存在しないこと、流域の小さい谷田川のみで昭和通り谷が形成されたとは考えがたいことを指摘。昭和通り谷の形成時期に谷田川がその上流で石神井川でつながっており、これが石神井川の本流であったと結論づけた。また、立川ローム層を鍵層とした江古田層との対比より、石神井川の王子より上流の河谷底に堆積する泥炭層をサブボレアル期(4500-2500年前)のものとし、音無渓谷がこの泥炭層を開析しているように見えることから、渓谷の形成時期をサブボレアル期以後とした。
1994年、北区教育委員会の中野守久らは石神井川の流路変遷時期を特定するため、現・石神井川から離れてすぐの谷田川の谷底低地にてボーリング調査を行い、その結果を発表した[8]。彼らは山手層(本郷層)の上位に泥炭質粘土からなる沖積層を発見し滝野川泥炭層と命名、14C年代測定によって約7400年前から約1000年前までに堆積したものと分かった。中野らは滝野川泥炭層は石神井川下流部が現在の流路をとるようになってから、旧河床が沼沢地となった環境で形成されたと考えた。また、石神井川が本郷台東端で縄文海進(6500-5500年前)に形成された埋没上位波食台(中里遺跡発掘の際に発見された)を侵食していないことなどから、縄文海進最盛期より後に河川争奪が起こったと推定した。これらのことから、石神井川は縄文海進最盛期に本郷台の崖端侵食に起因した河川争奪を起こし、流路を奪われた谷田川上流部では沼沢地となり滝野川泥炭層が堆積し、王子方向へと流出した新河流は河床を深く掘り込んで峡谷を作った、と結論づけた。
北区飛鳥山博物館では中野らの研究成果に基づき、縄文時代の河川争奪説の解説が展示されている[9]。
(引用おわり)

もちろん、『タモリ倶楽部』における流路変更論議のことも記されています。江川達也氏の江戸初期の治水工事説はどうも分が悪いですね。
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