ぐらんぴ日記

mixi上で「ぐらんぴ」が書いている日記の引っ越し版です。文字サイズ変更できます。

風紋五十年 2012年06月10日

1851219475_120風紋五十年

1851219475_180林静一

1851219475_25康氏


6月6日、『風紋五十年』発刊記念パーティで林聖子ママとツーショット。
撮影してくれたのはイラストレーター林静一氏。(写真中央、スピーチしてる)
「ぼくらは常連歴何年かな」と訊いたら林氏「娘がもう四十だから、それ以上ってことだね」。林氏夫人節子さんは、当時『風紋』でチイママ格。新宿界隈で呑む人で「風紋のセッチャン」を知らない人はいなかった。
セッチャンが風紋から独立して歌舞伎町に『柚子の木』という店を開いて林静一氏が常連となりセッチャンを射止めた。
この頃『風紋』のカウンターの中にいたイナバちゃんは外交官の令夫人となり、ヤマちゃんはH出版編集者だったM氏夫人。ミズちゃん(またはオミズ)はS社の編集者だったOという男のヨメになった。……、私である。

セッチャンは当時、康芳夫氏の内妻(康氏は中国籍なので入籍に問題があった)だったが、その愛妻を林静一氏がさらったということで『風紋』界隈では緊張感が走った。
林静一氏とセッチャンの結婚式にはなんと前夫、康芳夫氏が出席し、最前列に陣取った。列席者一同、青くなったのは言うまでもない。しかし康氏は莞爾として両者を祝福して去っていった。(今でもセッチャンは康さんのことを「お父さん」と呼んで相談相手にしている。静一氏との関係も良好である)

つい最近、聖子ママから聞いたのだが、「あの結婚式の前にね、康さんが電話してきて、セッチャンの結婚式に一緒に連れてってくれというのよ。どうして一人で行かないのと訊いたら『おれ、どういう顔して行ったらいいか分からないんだ』とオドオドしてるの。かわいかったわねえ」

去年の九月、日比谷松本楼で開かれた『風紋五十年記念』のパーティで康さんとセッチャンが歓談している写真を右に掲げておく。セッチャンの顔はプライバシー情報ゆえ、さすがに出せない。その時の日記は↓

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1780955551&owner_id=170858

『風紋五十年』(パブリック・ブレイン)は Amazon で発売されている。

http://goo.gl/HaIZL

風紋五十年表紙


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私が住んでいた札幌の家2 2012年04月19日

円山時逍館2

半世紀の昔、私が住んでいた家のことがブログに紹介されていて、懐かしさのあまり、仕事そっちのけで関連情報を集めるのに熱中してしまった。

そのなかで去年の今ごろ、『円山時逍館』(それが今の建物にテナントがつけた名)の一室を借りて事務所を開設した建築士さんがブログを開いている。

『五十嵐ユースケ設計室』
http://igarashiatelier.com/blog/2011/04/17/565/

このかたが借りたのは、洋館の二階、正面に向かって右端、位置的には北西角の部屋。
外は洋風であるが、このなかにある五室(一階二室、二階三室)は応接間に二階中央の部屋が板張り床で、残り三室は畳敷きであった。この建築士さんの借りた部屋も畳敷き十畳だったと思う。銘木を床柱に使って重厚な書院造の床の間がしつらえてあり、本来は客間であっただろうと思う。方角と庭木のせいで昼間もあまり陽光が射さない暗鬱な部屋であった。
「おやおや、あの部屋を借りたのですか」

円山の家幽霊室

私は、その能力がないのだが、母は霊感めいたものを備えた人で、次兄の娘、つまり私の姪の一人もその血を受け継いでいるらしい。
彼女たちが言うには、

「あの部屋は出る」

だいたい古くなってきた家というのは、何も無くても「出る」ような雰囲気になるものだが、私も少年時代あるいは東京から帰省してこの部屋に泊まる時は、あんまりいい気持ではなかったことは確かだ。いや、体験はしていないのだけれど。
特にその部屋で何かあったという伝承もないわけで。

その設計士さんの部屋で、テナントの人たちがパーティをしている写真があるのだが、何か感じるものがあると感じる人はいるかもしれない。(笑)
写真奥が床の間である。

円山の家幽霊宴会

そして階段の写真。これは懐かしかった。踊り場の上の高い窓が記憶どおり。しかし壁は全体に傷んでいるね。

円山の家幽霊階段

この階段がね、「出る」んです。(うふふ)
いや、現実には姿は見えない。
音がする。深夜、草木も眠る丑三つ時、トントンと階段を上がる音。
私も夜、寝ていて、「おや誰かが上がってくるな」と思うことが何度かあった。
二階に暮らしていた次兄夫婦や姪たちも、この「足音」は何度も体験している。
ただ、足音がするだけで、別に悪さもしないので、あまり気にしなかったのだが、
今でも不思議である。
いったい誰が上がり降りしていたのだろうか。

本来なら、伯母が首を吊って死んだ物置に、何か出ていいはずなんだけどね、霊感豊かな私の母でも、物置にいて何も感じたことが無かったらしい。

今のテナントさんは、それぞれのセンスを活かして部屋を改装し、豊かな洋館ライフを楽しんでいるようだ。(^_^)

円山の家旧応接間


イイネ!(5) みゆき(M1号) ゆずきいくと 退会したユーザー 猫神博士 かおる姫
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コメント
かおる姫 2012年04月19日 19:33
最後の写真以外は、ちょっと怖いです! (>_<)

ぐらんぴ 2012年04月19日 19:48
ちょっとテナントさんに訊いてみたいものですね。
「何か……、その……、ありませんか?」
「夜、階段で足音しません?」

いや、それはまずいんだろうけど。(笑)瑕疵物件になってしまう。
まだ私の従兄の未亡人が所有している。

あやのすけ 2012年04月19日 20:48
「霊感がある!」と断言はしませんが、最後の写真以外は室内に変な気配がありますね。一番最後の写真は室内ではなく、外からみている感じ。窓そのものじゃなくて、テーブルに映った窓のほうに変な感じが・・・。

わらねこ@笑夢猫 2012年04月19日 21:38
確かにいますね…
特に階段が嫌かも。

ぐらんぴ 2012年04月20日 05:59
一枚目二枚目の部屋は、一枚目の写真では天井近くの壁が黒いのに気づかれるでしょう。塗り壁なんですが、前は全面黒かった。だからよけい陰鬱で、この部屋に泊まるといつも体調が悪かったですね。この設計士さんは仕事場だけにしているからいいんでしょうね。ブログ見るかぎり体こわしてないし。(^_^;)

みゆき(M1号)2012年04月20日 07:03
わー、凄くすてきなお部屋ですねexclamationぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)
私霊感ゼロだし、ちょっとくらい出てもこんなおうちに住みたいですぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)

ぐらんぴ 2012年04月20日 10:59
いつだったか、安田理央さんに頼まれてAV作品に出演したんですよ。撮影がどっか三軒茶屋の向こうの民家をスタジオにしたところで、古い家なんですよ。それこそ札幌の円山の家ぐらいな、戦前からあるような感じ。撮影はもっぱら昔の茶の間と仏間(寝室)の座敷を使ったのだけれど、縁側の突き当たりに四畳半ほどの書斎めいた洋間があって、家具が雑然とあるだけで使われていない。陽当たり眺めともによいのに女優さんの控え室にも使われてない。そうしたら男優さんたちの控え室で二人の男優さんがしゃべっていて、どちらも霊感あるタイプ。期せずして二人が「あの部屋、いますね」「そうなんです、いるんですよ」と言いだしたので驚いた。(笑)なるほど、それで使われていないのか。

私が住んでいた札幌の家 2012年04月19日



円山時逍館

『レトロな建物を訪ねて』というブログをなんとなく観ていたら、札幌の旧建築が紹介されていた。「城下医院」というのがあって、「おお、それは私が住んでいた家のすぐ裏」なんて思ってたら、その次に「円山時逍館』というのがあった。
「はて、そんな館があったかいな」と思って観てみたら、びっくりした。
私が中学、高校時代を暮らした家だった。(*_*;)

http://gipsypapa.exblog.jp/17835950/

二階の左端の窓が私の勉強部屋だった。
もともとは私の父親の兄、伯父の家であった。
私は中学校2年生の夏に稚内から札幌の中学に転校して最初は下宿という形になった。
しかし下宿したとたんに未亡人だった伯母が自殺してしまったので、誰が住んでこの家を守るのかが問題になり、稚内にいた私の母が移ってきて暮し、父は稚内と札幌の間を往復するようになった。
私は下宿一ヶ月にして下宿先が自分の家になってしまったわけだ。
私以前に長兄、次兄が下宿していたが、長兄は東京に出て東芝に就職。私は大学が日大で東京に就職、スピンアウトしたあとも東京に住んでいた。
次兄は北大にいて助手だったから次兄が一番長く母親と同居していたことになる。
父親と母親はともに死ぬまでこの家で暮らした。
父も母も亡くなり伯父の息子娘(私にすれば従兄姉)たちも戻らないので、二十年ほど前に大部分が売却された。建坪は300坪ほどあったが、今は正面3分の1、洋館部分しか残っていない。この洋館部分は福岡に暮らしている伯父の長男(九州大の教授だった)の未亡人が所有し、賃貸に出されている。

伯父は戦後、ここを購入したようだが、もともとは札幌の銀行の頭取が持っていた家だそうだ。設計者などは分からないが、昔ふうの札幌住宅の典型に近いということで、よく写真家が撮影させてくれと言ってきていた。
玄関から入ると玄関ホールが広い。階段部分が吹き抜けのようになっている。私の出版社時代の同僚が札幌取材の際に訪問したことがあるが、「玄関を開けてごめんくださいと言うと、こだまが返ってきた。そんな家は初めてだ」と言っていた。
私が下宿していた頃、つまり伯父や伯母が住んでいた頃は表玄関を使うのは主人と来客だけで、家族や下宿人は脇玄関を用いるように言われていた。それとは別に通用口もある。南面した庭と裏庭が広く、家庭菜園で母がいろんなものを栽培していた。その部分は今、他人の家が建っている。

私も札幌に帰った時は、次兄のマンションのすぐ近くなので前を通って覗いてみるが、建築家デザイナーが共同で事務所として借りているらしく、内装をきれいにして使っている。
しかし半世紀も前、私が暮らしていた家がネットで観られるとは思っていなかった。通りからの眺めなら、いまは Google マップのストリートビューで見られるけれどね。

イイネ!(18) 黒木仙伍 みゆき(M1号) かおる姫 Mio gorosan わち きた Commander-紫弩 退会したユーザー のぶ翁。
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コメント
ぐらんぴ 2012年04月19日 08:22
「円山時逍館」で検索すると、現在、事務所として使っているオーナーたちのホームページがあり、そこに事務所の写真が掲載されているんですよ。「ありゃ、おれが高校時代、オナニーしまくってた部屋がこんなふうに使われてるんだ」と思うと、なかなか感慨深いものがあります。(笑)

ぐらんぴ 2012年04月19日 08:25
たとえばここ。
一階左の、かつては暖炉とピアノが置かれていた洋風応接間でした。
http://www.sapporodesignweek.com/2009/1037/ナダモト/

ぐらんぴ 2012年04月19日 11:48
二枚目に冬の写真を載せた。屋根の雪おろしと玄関前の雪かきは私の仕事だったので、これは大変だった。玄関前が広いのも考えものである。屋根の雪おろしは、よく雪と一緒に転落した。

ぐらんぴ 2012年04月19日 12:02
神経を病んでいた伯母は、ある夜、裏手の物置で首を吊って自殺しました。その物置はそのまま残されて、石炭と漬物樽の保管場所になっていたのです。石炭や漬物を運ぶのは私だったので、夜中に取りに行かされるのが死ぬほど怖かったです。(;_;)

ぐらんぴ 2012年04月19日 15:22
いや、その物置は昼でも薄暗く、入りたくないようなところで……。漬物樽は人間が一人すっぽりおさまるぐらいの大きさで、それ二本か三本にひと冬で食べる漬物(大根とキャベツ)が漬けこまれていました。冬は表面が凍るのでナタで氷をかち割って漬物をとり出します。冬は野菜類が極端に不足するので(今のようにスーパーとかコールドチェーンが無い時代ですから)漬物は貴重な食物繊維とビタミンCの供給源でした。
ぐらんぴ
ぐらんぴ2012年04月20日 09:45 削除
この家で一時期は、12,3人が暮らしていたことがある。大家族制度の名残り。お手伝いさんだけで3人いた。

ぐらんぴ 2013年04月01日 07:12
1年後の3月31日、札幌の義姉から電話があって「あの家の土地が売却されることになった」と連絡があった。当然、築83年の邸宅はとり壊し、更地にされる。まあ、これ以上の保存修復はとても無理だったから仕方ないだろう。私は遺産相続の列に連なっていないので権利関係は皆無。いくばくかの感慨が無いわけではないが、たぶん取り壊しにあたっても見に行くまではしないだろう。

内藤陳さんと小泉喜美子さん 2011年12月30日 23:07

内藤陳さんが28日に亡くなっていた。
それほど親しいわけではなかったが、フリー編集者時代、少しくつきあいはあった。常連というほどではなかったが、ゴールデン街の『深夜プラス1』には何度も通った。怒ると怖い人だったよ。どういう場合かというと、自分が気にいった冒険小説をけなす人が出てきた時。(笑)
ある時、六本木の酒場でどういう状況だったか、妙な顔合わせで飲んだことがあった。私は友人で、当時、日本版PLAYBOYの編集長だったS氏に呼び出されてふらりと顔を出したら、そこに内藤陳さんがいた。もう一人は青木雨彦さんだった。コラムニスト。この二人はどちらもミステリファンで一家言のあるサムライ、S氏は対抗馬としてミステリ好きの私を自分の側の加勢?に求めたものらしい。
時代は『女王陛下のユリシーズ』の話題があったから、その頃だ。(笑)
で、全員がベロベロに酔っぱらってきた時、顔を出したのが小泉喜美子さんだった。ハードボイルド作家生島治郎氏と別れて、生島氏と親友だった内藤陳さんと一緒になっていた時期だね。小泉さんも一番輝いていた時期かなあ。私はその席で一番ペケ(つまり無名)だったんだけど、一番若かったのも事実。(笑)小泉喜美子さんを「お、いい女」と思った私の心が伝わったのか、彼女は私の隣に座って親しく飲み始めたと思いねえ。(どうして江戸っ子の言葉に)
いや、私も小泉さんもそうとうに酔っぱらっていたんだねえ、私、彼女の耳を見て「いい耳してますねえ。噛みたくなる」って言ったのだよ。そうしたら彼女、「いいわよ」と言ったのだねえ。で、気がついたら私、小泉喜美子さんの耳、噛んでた。で、彼女は全然いやがってないから、調子にのって噛み噛みしてた。
いくら私でも、彼女のご亭主(籍は入れてなかった)の陳さんの前ではそういうことは出来ない。怖い顔して私たち二人を見てたからね。彼がトイレに立った隙に噛んでたわけ。
そうしたら肩をトントンと叩かれたので、はッと見上げてたら、陳さんが私たちを見下ろしていた。私や血の気がひきました。殺されるかと覚悟した。あろうことかあるまいことか、人の妻を酒席で耳たぶ噛んでたのだからねえ、これは殺されるに充分な理由だ。
そうしたら陳さん、ニヤリと笑って「そこまでにしておきなさいよ」と優しく言葉をかけてくれましたねえ。どっちかというと私より小泉さんが酔ってたような気がするけど、まあどちらも人事不斉状態だったんだけれども、それから陳さんは何事もなかったように酒を飲んで、小泉さんを介抱するようにして帰っていった……のではないか。私、そこらへん恐怖と恐縮で記憶がない。
まあ、そのあと『深夜プラス1』に顔を出しても別になにか意趣を感じたこともないので、恨まれてはないと思ったけれども……。はあ。今思い出しても冷や汗が出る。(*_*;)
その「事件」のあと、ある人の結婚式で小泉喜美子さんとは顔を合わせたことがあるが、向こうはまったく別人のようにシャッキリして私のことなど何も覚えていないようなので、こちらもそれを奇禍として、見た事も会った事もない人としてとおしました。
結局、陳さんと小泉喜美子さんは数年、同棲したけれどもうまくゆかず、小泉さんは、別れてのち新宿二丁目の酒場の階段から転落して亡くなった。その時もそうとう泥酔していたらしい。

そして陳さんも鬼籍に入ったとは……。
ご冥福を。合掌。
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コメント

ぐらんぴ 2011年12月30日 23:42
青木雨彦さんも、私と会ってしばらくして鬼籍に入られた。1991年のこと。

猫神博士 2011年12月30日 23:49
内藤陳さんといえば、当時『日本版PLAYBOY』に「読まずに死ねるか」を連載してましたね。単行本は家を探せばどっかにあるような気がします。
しかし何よりもやはり、トリオザパンチ時代の「ハードボイルドだど!
」が印象深いですね。
ハードボイルドの味わいをホントに知るのは、ずっと後のことですが、実際にハードボイルド小説を読む年代になっても、陳さんのフレーズはずっと心に残ってました。
『新青年』研究会の月例会が新宿で行われていた頃には、よくゴールデン街で飲んだものですが、「深夜プラス1」の看板は眼にしても、遂に入ることはありませんでした。
今にして思えば悔やまれます。
特に熱心なファンというわけではなかったけれど、陳さんのキャラは好きでしたね。
今も心に「ハードボイルドだど!」のフレーズは深く刻まれています。
訃報に接し、一度くらいはお目にかかりたかったなと思った次第です。
合掌。
コメント

猫神博士2 011年12月30日 23:56
ああ、青木雨彦さんのコラムも『ミステリマガジン』で愛読してました。
ミステリ関係のコラムニストの方たちって、印象深い人が多かったですね。
まだご存命の方たちでは、小林信彦さん、小鷹信光さん、各務三郎さんなど、中学生の頃のおいらは、ミステリそのものよりもコラムの方が好きだったのかも知れません。
コメント

ぐらんぴ 2011年12月31日 09:59
小泉喜美子さんは1985年に亡くなっている。享年51。仕事的にも熟女的にも盛りだったのに何という惜しいことを。私が好きなP.D.ジェイムズやルース・レンデルはみな小泉訳で知った。翻訳家としては私と相性がよかった。まさか後年、その人の耳を噛んだり舐めたりするとは。(*_*;)
彼女の最初の夫、生島治郎とは25歳の時に結婚したが、すでに文筆業を目指していた彼女に生島は「昼は人の原稿を読み(ミステリマガジン編集長だった)、夜は自分の原稿を書かなきゃいけないのに、おまえが原稿を書いてると気が散る」というトンデモな理由で執筆を禁止し専業主婦でいることを命じた。夫婦間は当然不和になり離婚に。その前後に小泉喜美子は畢生の傑作『弁護側の証人』で作家再デビューをはたした。
生島治郎は離婚後、浅草のソープランドに偶然に入り、そこで敵娼となった韓国籍のソープ嬢に惚れ込み結婚。その経緯を『片翼だけの天使』に書いた。それを読んで私は驚いた。生島がソープ嬢に惚れ込んだ原因は「フェラチオをしてくれた」からだというのだね。中年になったハードボイルド作家、生島治郎は、その年齢までフェラチオを体験していなかったのだ。
「ということは、最初の妻、小泉喜美子は、その夫婦生活で夫にフェラチオをしてあげなかったことか」とゴールデン街の某酒場のママ(男性)に訊いた。彼女は小泉喜美子と親しかった。「そうなのよ~、私もそれに気づいてキミちゃんに言ったら、彼女、くやしそうに「それをしてやってたら、離婚しなくてすんだのに」と言ってたわよ~」
生島と別れても小泉喜美子は前夫とは親友のように交際していたが、片翼天使嬢と結婚したことで嫉妬心をつのらせたか、天使嬢の国籍について差別発言をした。これで生島が激怒、二人の関係は決裂した。内藤陳さんと急接近したのは、たぶんその後のことであっただろう。
生島治郎は『片翼』シリーズでずいぶん本を売りドラマの原作料も得たはずだが、夫婦関係は妻の側の親族の問題(家族に収入を奪われたのではないか)で後年、離婚している。生島が死んだのは2003年、70歳だった。陳さんが死んで全員が鬼籍に入ったが、不思議な三角関係は天国でまた始まるだろうか。

きた 2011年12月31日 12:51
お二人のご冥福を祈ります。 
G街のあのお店は行かないままでした。残念。
「弁護側の証人」、2-3年前に文庫で復刻版が出てましたね。確か帯の推薦文を書いているのが貫井徳郎氏で、どんな風に騙されるかというややM的な愉楽を期待しながら読みました。
コメント

狐 2012年01月17日 22:57
オリも彼の前でオイタをして、ちと怖い思いをいたしました(`・ω・´)でも、オイタを許容する人ではありましたよね

私とテレビ 2011年10月09日

文芸家クラブの会報に寄稿を求められていたけれど、うっかりしているうちに締め切りが過ぎたので、そのままにしていたら先日、「原稿ください」と催促の電話がかかってきた。まだ間に合うというのだ(あの、締め切りは確か一ヶ月前だったんですけど(^_^;))。はいはい、では書きましょう。お題は『私とテレビ』。
じゃあまず日記に書いてみることにしよう。それを送ればいい。一挙両得。(^_^;)

『私と(洗脳装置としての)テレビ』
                     館 淳一
 私が生まれた時にはまだテレビというものが無かった。テレビが生活のなかに入ってきたのは小学校高学年、6年生ぐらいからではないだろうか。
 それ以前の電波メディアはラジオしかなかった。それもNHKの第一と第二だけである。黒柳徹子が子役の声優で『ヤン坊ニン坊トン坊』のトン坊をやってた。徳川夢声の朗読で『怪人二十面相』を聞いて死ぬほど怖かったりした、そんな世代だ。
 そしてテレビ放送が始まるのだが、いま頃になって考えてみると、テレビというのは子供にとって偉大なる洗脳装置だったとつくづく思う。私はテレビで洗脳された第一世代の子供たちだった。
 端的に言うと、テレビは私を、「アメリカが一番、ヨーロッパが二番、日本はどうでもいい」という西欧崇拝主義のような考え方にねじ曲げてしまった。
 戦後、マッカーサーが指導した占領政策の根本は、日本人に「アメリカを敬愛させる」ということだった。そのためにアメリカからじゃんじゃんハリウッド映画がもたらされたのだが、初期のテレビはそれに環をかけて私たち子供に「アメリカ、ヨーロッパは素晴らしい。日本は貧乏くさくてイヤだ」という思想を押しつける番組が氾濫したのである。
 すでに洗練されたテレビ文化をもつアメリカの番組は、ドラマにしろバラエティショーにしろCMさえも、日本の同種のものをクズ同然に見せた。役者の質が違う、見せ方の技術が違う、スタジオや背景への金や手間のかけかたが違う……。
 『ヒッチコック劇場』『コンバット』などに代表される当時の人気連続ドラマ番組に私はたちまち夢中になり、もう日本で作られるテレビも映画もエンターティンメントに関するすべてのものに見向きもしなくなった。 そう、私は「売国奴的非愛国西欧崇拝少年」としてテレビにからめとられてしまったのである。
 それまでは歌謡曲を聞き東映時代劇に夢中になっていたのが、もう音楽はアメリカンポップス(それからジャズ、ロックとつづく)、映画は洋画一辺倒、軍隊はアメリカ軍が最強、戦艦大和も零戦もペケ。小説もアメリカやイギリスのミステリ最優先。私のなかの最良のポルノ小説は『O嬢の物語』である。
 そんなふうにして私、完全に西欧かぶれで、日本の文化についてはあんまり興味も関心もなく育ってしまった。そしてそれは今も続いている。死ぬまで抜けないだろう。
 私のあと、日本のテレビ文化が成熟してきた頃に影響を受けた青少年は、バランスよく日本と外国の文化を受容して育ったのではないかと思われる。団塊の世代以後の人たちと昔のテレビの話をしてもサッパリ噛み合わない。これはもう仕方のないことだ。
 しかし私がそれほど欧米の文化に染まってゆく根本のところは、私が日本の最北端、稚内という辺境の地に生まれたからだろうと思う。辺境の地であればこそ文化の中心にあこがれる。その中心は遠ければ遠いほど理想的だ。テレビに限らず私が死ぬまで求めるのは「ここから離れた遠いところ=異国」の物語なのである。
 少年の日、アメリカ文化で溢れたテレビは、私にたっぷりとその「毒」を与えて私を欧米かぶれにしてくれた。そのことを私は別に反省も後悔もしない。今でも私が見るテレビはもっぱら外国のミステリシリーズか外国を旅する番組である。大本営発表の時代に戻ったニュースはもう見なくなった。 ネットがあれば充分である。テレビが遠くの国の物語をやってくれていれば、それで私は満足なのである。 (終わり)



イイネ!(6) 『新青年』 黒田 くまくま('(ェ)') Commander-紫弩 霞 きた 白馬
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コメント

ぐらんぴ2011年10月09日 22:08
しかし当時のテレビの影響について書こうと思ったら本一冊ぶんはある。とてもじゃないけど原稿用紙3枚では無理だ。

ぐらんぴ2011年10月10日 07:35
もう誰も読んでないだろうけど、自己れす。
いや、実はテレビが主題だからこうもっていっただけで、テレビだけが私を非愛国欧米崇拝少年にしたわけではない。主に映画なのだ。当時稚内には四つ映画館があって、邦画専門館は稚内劇場の1館だけで、日劇が洋画専門、名画座、北都劇場(北斗劇場かな)が混合館だった。結局洋画がかかる率が
大きい。これは進駐軍の通信部隊の基地があったからで、米軍兵士が洋画を(つまり本国の映画を)見に来るんである。だからハリウッド映画やら当時全盛のイタリア映画、フランス映画がバンバンかかった。テレビ見始めのころ、私は一人でこれら映画館に通って洋画をたんまり観てた。それが私の欧米崇拝を高めたんである。戦争映画でも出てくる日本軍はカッコ悪く描かれていたからねえ。(笑)本当の洗脳装置は欧米の映画だったのである。中学三年の頃はたぶん年に百回以上、通常二本立てだから二百本は洋画を観ていたに違いない。日本映画はほとんど記憶にない。

『新青年』 黒田2011年10月17日 09:43
 生まれた時からTVやビデオデッキが身近に存在していた(ギリギリ、レコード世代です)者としては、一般家庭への映像文化浸透やTV普及による情報サイクルの転換には興味があります。
 そこから、映画と大衆小説の関わり、作家と自作映像化による配給会社との利害関係、TVドラマと推理小説など、いろいろなテーマにアプローチもできますし、テレビの(一般家庭への普及を含めた)影響について書かれた文章は参考になります。

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官能作家・館淳一。趣味は路上観察、雑学研究からセーラー服ウォッチング、美女装子探しまで、なんでも探索。
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